科目試験の勉強 近代日本文学
近代文学は明治三十九年を境として二分できる。何故か?→1)近代意識が芽生えたこと 2)個性化したこと。
歴史的概念としての近代→19世紀後半以降を指す。
【擬古典主義文学】
○ 国粋主義を背景に江戸文学を模範としつつ,素材を写実的に扱う古典回帰傾向の文学。
○ 尾崎紅葉『多情多恨』『金色夜叉』
○ 幸田露伴『五重塔』
江戸文学の特質である、滑稽とか洒落とか人情とか勧善懲悪とかの伝統を受け継いだ、後世にいわゆる「擬古典主義」文学を展開していた。
■我楽多文庫 文芸同人雑誌。1885年(明治18)5月創刊、89年10月廃刊。 尾崎紅葉、山田美妙
、石橋思案、巌谷小波、川上眉山、江見水蔭、広津柳浪ら、 硯友社の機関誌。初め紅葉、美妙による筆写回覧雑誌で、内容も戯文、狂歌、都々逸などをも含む遊戯的な色調が濃厚であったが、文学改良の時代風潮に応じ、近代的な写実文学の創造に向かった。同人が増加して86年11月活版の非売本形式に変わり、さらに88年5月から公売となり返り初号を出した。翌年3月の同第17号から『文庫』と改題、吉岡書籍店より発売されたが、第27号で廃刊。美妙の脱退(1888)後は紅葉が中心で、硯友社員を相次いで文壇に登場させたほか、幸田露伴や淡島寒月の短編なども掲載した。本誌では美妙の言文一致体、紅葉の雅俗折衷体など、小説文体の模索がとくに注目される。
■女学雑誌 女性啓蒙雑誌。1885年(明治18)7月~1904年(明治37)2月。計548冊。10号まで万春堂、以後女学雑誌社発行。 巌本善治を中心に『女学新誌』から分かれて創刊された。編集人は近藤賢三から善治を経て青柳猛。発行回数は初め月2回、ついで3回、さらに週刊、隔週刊、月刊へ。女性の啓蒙・向上を目ざし、キリスト教を基盤とする婦人矯風会設立や廃娼運動、一夫一婦制建白運動など、わが国初期婦人解放運動に重要な役割を果たした。 石橋忍月北村透谷らを評壇に送ったほか、若松賤子の『小公子』翻訳も注目される。ほかに木村熊二 中島湘煙 田辺花圃、清水紫琴、磯貝雲峰、星野天知、島崎藤村執筆した。1892年、対象読者層によって甲の巻と乙の巻に分けられ、甲の巻はのち『評論』と改題。派生誌『女学生』『女学雑誌文学界』などが出された。
■文学界 文芸雑誌。(1)1893年(明治26)1月~98年1月、全58冊。発行所は4号まで女学雑誌社、以後文学界雑誌社。おもな同人は星野天知、平田禿木、島崎藤村、北村透谷、戸川秋骨、馬場孤蝶、上田敏など。キリスト教的改良主義にたつ『女学雑誌』の若い寄稿家を中心に発刊され、やがて女学雑誌社から独立するとともに啓蒙主義的立場から脱し、主我的で反俗的な浪漫主義の傾向を強めていった。後期浪漫主義を代表する『明星』に対して前期浪漫主義の拠点となった。初期は透谷の形而上的な評論、中期は客員格であった樋口一葉の小説や、敏、禿木らの芸術至上主義的評論、後期は藤村の叙情詩によって代表される。
早稲田文学 文芸雑誌。■第一次■1891~98年(明治24~31)。坪内逍遙主宰。当初、東京専門学校文学科の講議録的内容。やがて「記実主義」の方針を打ち出し、「彙報欄に特色をみせる。逍遙の森鴎外との間の「没理想論争」の拠点でもあった。■第二次■1906~27年(明治39~昭和2)。島村抱月、本間久雄主宰。抱月、相馬御風らの自然主義文学論、正宗白鳥、田山花袋らの小説を掲載して自然主義の基地の観があり、海外の新文学の紹介などにも力を入れたが、漸次文壇の主流の立場を失う。
■硯友社 1885年(明治18)2月、当時まだ大学予備門の生徒だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案らが創立した文学結社。「硯」は文筆にちなんだもの。最初は彼らのほか高等商業在学中の丸岡九華らを加えた広義の文学愛好グループにすぎず、同年5月機関誌『我楽多文庫』を創刊したが、紅葉と美妙とが手分けして筆写回覧する小雑誌で、内容も小説、新体詩などのほか、狂句、都々逸、落語、謎などまで掲載するような趣味的なものだった。しかし、しだいに同人が増え、86年11月から活版非売、さらに88年5月から公売となった。このころから同人は新文学の樹立を志し、結束を固めて文壇に打って出た。当時の同人には、前記紅葉らのほか、巌谷小波、川上眉山、広津柳浪、江見水蔭、大橋乙羽らがあり、美妙はこの年離脱した。89年から「新著百種」の刊行が始まり、紅葉をはじめ各同人が執筆、文壇にその地歩を固めた。
■自然主義
二葉亭の『浮雲』(1887~88)はわが国最初の本格的写実小説となった。しかしやがて、比較的正当に移入された初期の写実主義理論は、フランスから入ってきた自然主義の新たな流れに合体し、田山花袋の『蒲団』 (1907)以後、普遍的真実を描くべき没個性の文学が、作者の個をもっぱら描く対象とする(すなわちリアルなものとは外の現実ではなく、内面の「自我」である)私小説へと変貌し、日本独特の自然主義を形成するに至った
■観念小説 作家が時代社会、世相などから触発された観念をその作品中で明白に打ち出している小説。ただし、日本近代文学史上では、おもに日清戦争後の1895年(明治28)ごろ流行した一群の小説をさす。すなわち、1895年の泉鏡花『夜行巡査』『外科室』、川上眉山『書記官』『うらおもて』や、翌96年の鏡花『海城発電』『化銀杏』などの作品に対する呼称である。これらは主として、 当時矛盾を露呈し始めた明治資本主義社会の現実に着目した作家がその問題点を指摘し、読者に強く訴えようと意図したものであった。深刻小説とともに写実主義の深化を目ざしたともいえる。ただ、あまりにも観念が先行したために、空疎な印象は否めず、やがて衰退した。
■言文一致 明治初期の改良運動の一つで、国語・国字改良と類縁をなしている。改良運動とは、日本を急速に西欧近代に接近させるため、日本のさまざまな分野の制度を西欧風に改良していこうとする運動だが、その根幹となったのが言文一致を中心とすることばの組み替えの試みであった。具体的には国民の啓蒙(けいもう)を目的としていたが、結果的には日本人のそれまでの思考の変革を促す一種の精神革命として機能していった。このことばの改良運動は、最初は前島密(ひそか)の「漢字御廃止之議」建白(1866)に始まる漢字廃止論や、西周、外山正一、矢田部良吉、田口卯吉らのローマ字論あるいは清水卯三郎らの平仮名論などの国語・国字改良論が先行していたが、しだいに言文一致論へと改良の比重が移行していった。言文一致とは、それまで分離していた言(話しことば)と文(書きことば)とを一致させようとする試みだが、具体的には話しことばすなわち口語体で文章を表していこうとする運動として展開していった。
【深刻小説】日清戦争後、広津柳浪を中心に流行した、社会の悲惨で異常なできごとを題材にした小説。柳浪の「変目伝」「黒蜥蜴」など。悲惨小説。
【山田美妙】小説家、新体詩人、国語学者。東京出身。本名武太郎。尾崎紅葉らと硯友社を起こして「我楽多文庫」を発行。小説「武蔵野」「蝴蝶」などにより、言文一致体の先駆者と目された。東京アクセント・ガ行鼻音を注記した「日本大辞書」を編纂。著「夏木立」「日本韻文論」
明治初期において、キリスト教や市民社会の伝統を持たない日本に、近代文学を移植することは一見困難な作業のように思われた。しかし西鶴や近松をはじめとする町人文学や、武士階級の漢学の素養は意外にも、西欧文学を受け入れる土台となった。 人間の自我を主題とする西欧近代文学と「もののあわれ」を中心とする日本人の文学観・自然感とは隔絶し、その間を埋めることは困難なことのように思われた。しかし近代作家は西欧の文学技法を模倣することによって内面を語る文体を確立し、「古典」を題材とすることで「近代文学」を成長させていった。
1)芥川龍之介が登場するまで
日本の近代化は西欧列強のアジア進出という歴史的条件を契機としている。その結果としての明治維新は、政治の世界を大きく変えることになった。しかし庶民の生活様式が大きく変化しなかったように、小説や詩歌の世界では、古典の世界は長く生き残った。
江戸時代の川柳集『誹風柳多留』には『源氏物語』や『平家物語』などの知識や、古典の故事来歴を知らなければ理解できない句がいくつも存在する。川柳の愛好者はおもに庶民階級であった。寺子屋を中心とする庶民教育は高い識字率を達成し、庶民を「読者層」へと成長させていった。この庶民によって「江戸」の文学は支持された。
「時代」とは歴史という連続する時間軸を任意に区切った便宜的な概念であり、時代区分としての、江戸後期と明治初期は大きく重なりあっている。明治初期に活躍した仮名垣魯文らの作品は「江戸」の戯作文学の延長と考えなくてはならない。戯作文学をはじめ日本古典文学の伝統は、大きな影響力を持って明治期の文学を拘束した。「四迷、鴎外などの文学を後から引っ張っていたもの、彼らが懇親のしからを込めて戦っていたものは、春水を今なおベスト・セラーにする江戸文学の巨大な伝統、つまり西洋近代文学とはまったっく異質な、日本の文学伝統全体だったのです。」(奥野健男『日本文学史』、 7頁) このように明治初期の文学は古典の「頸城」を脱するための戦いであった。そして古典の伝統と対決するための武器・ 道具が西洋文学であった。
このように日本の近代文学は西欧文学を模倣することによって発展した。しかし作品自体は西欧文学のコピーとはならなかった。西欧とは異なる日本人の感性が(自然観や人間観)否応なしに作品に反映されざるを得なかったからである。
日本の近代文学は大正期に黄金期を迎えた。日清・日露戦争の勝利・連合国の一員としての第一次大戦といった外的条件により対外的地位や国力が上昇したことは、国民生活にも安定と余裕を与えた。また政治的にも「大正デモクラシー」と呼ばれる相対的に自由な雰囲気が存在した。このような時代的雰囲気の中で「自然主義」は徐々に衰退し、武者小路実篤や有島武郎らの「白樺派」や佐藤春夫や永井荷風らの「耽美派」などが台頭してきた。
芥川龍之介は久米正雄や松岡謙ら、「新思潮」の同人達とともに「理智派」「新技巧派」などといわれたが、共通の文学的主張や理念はなく、東大出身であり夏目漱石を師と仰いだということのほかに共通点はなかった。
2)芥川龍之介と今昔物語
「古典文学」を自己の作品に取り入れる場合二つの立場が存在する。
一つは古典自体にあらたな光を当て、新しい解釈を試みようとする立場であり、もう一つは人物や状況を古典の世界に事寄せて、自らの文学を構築しようとする立場である。第一の立場は古典自体の現代的解釈である。第二の立場は作家が抱える内的・外的状況を古典に仮託して「現代」を語るものである。この場合、古典は文学表現のための借景であり、古典自体は、作家の創造力によってどのようにも解釈される。
今昔物語は芥川龍之介によって新たに評価され現代的意味を与えられたとされる。
作品と今昔物語との関係を創作順に並べると以下のようになる。
「羅生門」大正四年十一月一日『帝国文学』 巻二十九「羅城門の上層に登りて死人をみる盗人の語第十八」 巻三十一「太刀帯の陣に魚を売る嫗の語第三十一」
「鼻」 大正四年二月第四次『新思潮』 巻二十八「池尾の禅珍内供の鼻の語第二十」
「芋粥」 大正五年九月一日『新小説』 巻二十六「利仁の将軍若き時京従り敦賀に五位を将て行く語第十七」
「運」 大正六年一月一日『新潮』 巻十六「貧しき女清水の観音に任りて助けをえる語第三十三」
「偸盗」 大正六年四月一日『中央公論』 巻二十九「人に知られぬ女盗人の語第三」巻二十九「筑後の前司源忠理の家に入る盗人の語第十二」
「往生絵巻」 大正十年四月一日『国粋』 巻十九「讃岐の国の多度の郡の五位法を聞きて即ち出づる語第十四」
「好色」 大正十年十月一日『改造』巻三十「平定文の侍従を仮借する語第一」
「藪の中」 大正十一年一月一日『新潮』 巻二十九「妻を具して丹波の国に行く男大江山に於いて縛らるる語第二十三」
「六の宮の姫宮」大正十一年八月一日『表現』巻十九「六宮姫君の夫出家する語第五」巻十五「悪業を造る人最後に念仏を唱えて往生する語第四十七」
(鷺只雄編 年表作家読本『芥川龍之介』『芥川龍之介全集』角川書店『日本古典文学全集』小学館参照)
以上のように芥川龍之介は今昔物語から多くの題材を得ている。彼自身の言葉によれば、古典を題材として選ぶのはテエマを芸術的に最も力強く表現するためである。「今僕があるテエマを捉えてそれを小説に書くとする。そうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現するためには、ある事件が必用になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日この日本に起こったこととしては書きこなし悪い、もし強いて書けば、多くの場合不自然の感を読者に起こさせて、その結果折角のテエマまでも犬死にさせることになってしまう。」(『澄江堂雑記』本文表記は『芥川龍之介全集』による)
『今昔物語集』の中でも、芥川龍之介が最も興味を持ったのは本朝の部の「世俗」と「悪行」の部であることが、「今昔物語に就いて」に記されている。 【「今昔物語」三十一巻は天竺、震胆、本朝の三部に分かれている。本朝の部の最もおもしろいことは、おそらくは誰も異存はあるまい。そのまた本朝の部にして最も僕などに興味のあるのは「世俗」ならびに「悪行」の部である。】(本文表記は『芥川龍之介全集』による)また次のように今昔物語を評価している。【僕はやっと「今昔物語」の本来の面目を発見した。「今昔物語」の芸術的生命は生々しさだけには終わっていない。それは紅毛人の言葉を借りれば、brutality (野性)の美しさである。あるいは優美とか華奢とかには最も縁の遠い美しさである。】古典に影響を受けた作家として谷崎潤一郎や室生犀星らがいる。彼らは王朝の華やかな美を追い求めたが、芥川龍之介は今昔物語の 「優美とか華美とかには最も縁の遠い美しさ」というところに惹かれていた。しかしこのような今昔物語を題材としながらも、芥川龍之介は題材との間に一定の距離を置き自らの作品に「野性の美しさ」を表現することはなかった。吉田精一の指摘によれば、芥川龍之介が古典の中に発見したのは「多くは憂鬱なる人生であり、救いのない人間の利己的精神であった(吉田精一 『現代文学と古典』 p.114)
3)小説 「藪の中」について
芥川龍之介の小説「藪の中」は、『今昔物語集』に題材を採ったものである
「藪の中」は『今昔物語集』第二十九巻第二十三話の「妻を具して丹波の国に行く男大江山に於いて縛らるる語」を中心に構成されている。二十九巻には盗賊談が収められており題材となった話は、小説「藪の中」に比べて単純な物語である。登場人物は「男」「妻」「今ノ男」というように名前を持たない抽象的存在である。小説「藪の中」では登場人物たちの複雑な心理的葛藤が描かれ、物語の構成も入り組んでいる。『今昔物語集』の話では、女が犯されただけで殺人事件は起こっていない。今昔物語では夫の目の前で他の男に犯された妻と、それを見せ付けられた夫は、その後も丹後へ旅行を続ける。
芥川龍之介によって再構成された「藪の中」の登場人物は、近代的苦悩を持ち合わせた人間として描かれている。検非違使の取調べに答える木樵、旅法師、放免、真砂の母である媼の四人が事件の概要を語り、客観的な事実を明らかにする。次いで、事件の当事者であり主人公である多襄丸、真砂、巫女の口を借りた死霊となった金沢武弘が、それぞれの立場から事件の概要と己の内面を告白していく。技巧的な手法と、劇的な展開で読者を物語の世界に引き込んでいく。このような探偵小説的技法についてはポーやブラウニングとの関係が指摘されている。ひとつの事件を関係者や当事者の立場ごとに異なる解釈とモノローグによって劇的に構成する手法は、『指輪と本』からヒントを得たものであると吉田精一は指摘している。(『現代文学と古典』参照)。『指輪と本』心理小説の内容を持っている。ブラウニング(1812― 1889) はテニスンと並び英国ヴィクトリア朝の詩壇を代表する詩人であり〈劇的独白〉 と呼ばれる独自の表現形式で人間心理の機微を表現したとされる。芥川龍之介はこの「劇的独白」の手法および『指輪と本』 の形式を援用し、人生の機微、人間心理の微妙な陰影を表現しようとした。
芥川龍之介という日本の近代文学者は、『今昔物語集』といった古典を主たる素材として、ブラウニング、ビアスといった外国文学を参照しながら、自己の創作を行ったことになる。明治以降、日本は近代化の過程において、江戸期以前に摂取してきた中国文化、国内で育み熟成させてきた日本文化の基礎の上に、西欧諸外国の技術を導入してきたのである。「和魂洋才」の謳い文句ではないが、文化の総体である文学もまた、従来の日本文学を土台に西欧の手法や形式を取り入れ、近代文学が構築されてきたのである。森鴎外、夏目漱石といった芥川龍之介の一世代前の作家たちも、芥川龍之介自身も、漢学の素養や漢詩文・日本古典文学の教養の上に、近代西欧文学を積み重ねて自らの作品世界を構築してきた人々である。「藪の中」における芥川龍之介の創作態度、手法には、それが色濃く表れている。
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