前回の試験では「持ち込み」可だったのに「持ち込む」事を忘れてしまった。今回はそんなことの無いように、
しっかり準備しようと考えている。
テキストはもちろん、参考文献多数、山川の「世界史小辞典」とか、「西洋史辞典」とかも持って行こうかと考えている。リュックか、
台車ででも運ぶか・・・
ネットでイギリス中世史の情報も、せっせと集めている。 プリントアウトしてクリアーファイルにインデックスをつけて分類して・・・
準備は完全?
■アンジュー
Anjou
フランス西部の歴史的地方、旧州名。主としてメーヌ・エ・ロアール県に相当する。旧州都のアンジェ付近でいくつもの河川が合流し、
マイエンヌ川、サルト川は合流してメーヌ川になり、さらにロアール川に流れ込む。主要道路はこれらの河谷に沿っている。
西部は湿潤気候を利用した牧草栽培による牧畜が盛んであり、東部はブドウをはじめ果樹、野菜、花卉栽培が卓越する。
アンジェは商工業の中心地である。→アンジェ〈高橋伸夫〉■歴史■1世紀の初めごろからケルト人が植民し、ローマ帝国の支配を受けたが、
フランク人によって征服された。9世紀に入ってカペー家の祖先ロベール・ル・フォールRobert le Fort(?―866)
がノルマン人の侵入を撃退し、870年伯領となり、アンジェルジェが第一アンジュー家(870~1205)を創始した。この家から、
イギリスのプランタジネット朝(1154~1485)が生まれ、イギリス国王がアンジュー伯領を支配した時代(1154~1203)
もあったが、1203年フランス国王フィリップ2世は、封建法上の手続によって、イギリス国王ジョン(欠地王)
の手から奪回することに成功した。1226年、フランス国王ルイ8世は王子シャルル(1世)にアンジューとメーヌを譲渡したが、その後、
バロア家のフィリップ6世が王領地に併合(1328)、ついでジャン2世(善良王)の第2子ルイの公領となった。1482年、
国王ルイ11世はふたたび王領地に併合し、その後変わるところはなかった。アンジュー公という称号は16世紀以降も血統親王に付与され、
アンリ2世、ルイ14世の王子たちにその例をみることができる。〈志垣嘉夫〉
■ウィリアム1世
(1027/28―87)ノルマンディー公ロベール1世の庶子。父の死後ノルマンディー公となったが、貴族らの反乱に苦しみ、
1047年バル・エイ・デューンの戦いに苦戦、フランドルの協力を得て57年バラビーユの戦いでフランス王アンリ1世を撃破して、
ノルマンディー公領の統轄に成功した。
51年と64年には後継子のないエドワード懺悔(ざんげ)王からイングランド王位後継の約束を得ていたが、
66年懺悔王の死後ハロルド2世が王位についたのに反対してイングランドに上陸、
ノルマン騎兵軍をもってヘースティングズの戦いでハロルド2世を敗死させ、同年末ロンドン入城を果たして王位につき、ノルマン朝を開いた。
その後、各地の反乱の鎮定に多忙であったが、カンタベリー大司教ランフランクの内助を得てイングランド教会の統一、
ローマ教会との関係の修復にも成功した。彼は、ノルマン貴族を各地に封じて大陸的な軍事的封建制度を導入するとともに、
1086年8月ソールズベリーで貴族らから忠誠誓約Oath ofSalisburyをとったように集権的な統治を行い、
全国的検地を施行してドゥームズデー・ブックという土地台帳を86年末に編纂させた。しかしその間、
フランス王フィリップ1世の攻撃に苦しみ、国内でも義兄弟バイユー司教オドと対立し、さらに長男ロベールの再三の反乱にあうなど、
その治世は多難であった。ノルマンディーにおいてフィリップ1世と交戦中、87年9月9日死去。
〈富沢霊岸〉
■ウィリアム2世
(1056/60―1100)イングランド王ウィリアム1世の第3子。父の寵愛を受けてその死後イングランド王となる。
兄のノルマンディー公ロベール、バイユー司教オドらの反乱を切り抜け、ラナルフ・フランバードを起用して厳格な統治を展開し、
聖職者叙任権をめぐってカンタベリー大司教アンセルムとも対立した。
ロベールの十字軍出征中ノルマンディー公領をゆだねられたが、狩猟中暗殺された。
〈富沢霊岸〉
■ウェセックス王国
Kingdom of Wessex
アングロ・サクソン七王国の一つ。495年ごろセルディックがイギリス南部に上陸し、519年に建国。キーウリン王(560―593)
は南部イギリスの覇王となる。イネ王(688―726)は著名な法典を出して発展の基礎を開き、エグベルト王がマーシア、
ノーサンブリアを破って七王国の統一の基礎をつくった。その後デーン人の侵入に苦しむが、アルフレッド大王がデーン王グスルムの攻撃に耐え、
イングランド統一の気運を醸成した。〈富沢霊岸〉
■オックスフォード条項
Provisions of Oxford
イングランド王ヘンリー3世が、1258年国政の改革を要求する諸侯に強要され、同意した協約。これにより、
王権は常置の15人委員会に委任され、王の名において貴族が国を統治することになった。貴族が連帯して王権を制限し、
行政に介入したのはこれが最初である。しかし、王は、ローマ教皇の支持を背景に、
1264年フランス王ルイ9世の好意的な裁定によってこの協約から免れようとしたので、貴族との間に武力衝突が起こった。この
「諸侯(バロン)戦争」Baron's Warで国王軍を破った貴族側の指導者シモン・ド・モンフォールは、
この条項を王に再確認させて一時的に国政を掌握したが、1265年シモンの敗死により、新体制は崩壊した。
〈松垣 裕〉
■エドワード(懺悔王)
Edward, the Confessor
(1002/05―66)ノルマン朝成立以前の、最後のアングロ・サクソン系のイングランド王(在位1042~66)。
エセルレッド2世とエマとの子。1013年の
デンマーク王スベンの攻撃を避けてノルマンディーに逃れ、そこで育った。デーン朝ハーザクヌード(大王)の死後即位。
修道士のような風貌のため懺悔王とよばれた。ウェセックス伯ゴドウィンの専横に不満で、ノルマン人貴族を寵愛し、
ノルマンディー公ウィリアムに王位後継を約束した。王のノルマン人偏重政策は、ゴドウィン伯を反抗に走らせた。
その子ハロルド伯も権勢を振るい、王は晩年は信仰生活を送った。
王はイングランド南東部の五港市に特権を与えて海上防衛にあたらせ、ウェストミンスター修道院を壮大にした。彼の時代は、最後のアングロ・
サクソン王の時代として、のちに理想化された。〈富沢霊岸〉
■エドワード(1世)
Edward I
(1239―1307)プランタジネット朝のイギリス王(在位1272~1307)。ヘンリー3世の長男。
皇太子時代ガスコーニュとアイルランドを経営。シモン・ド・モンフォールの乱に初め反対していたが、のちそれを支持した。しかし、
シモンらの寡頭制を批判するに至り、1265年、父ヘンリー3世を助けてシモンをイーブシャムに破り、
父王にかわって67年マールバラ法を出して内乱を収拾した。70年十字軍遠征に出て、父王の死(1272)後74年に帰国。
74~75年の調査をもとに一連の制定法を出して「イギリスのユスティニアヌス」の異名をとり、封建王政を発展させた。
議会制を尊重し95年には模範議会を招集したが、晩年は独裁化した。外交面では、84年ウェールズ法を出し、1301年皇太子をプリンス・
オブ・ウェールズとする風を始め、大陸でもシチリア問題の調停に活躍したが、スコットランドで擁立したベイリアル王に背かれ、ロバート・
ブルース王の抵抗に苦しんだ。〈富沢霊岸〉
■エドワード(2世)
Edward Ⅱ
(1284―1327)プランタジネット朝のイギリス王(在位1307~27)。エドワード1世の四男。王としての資質を欠き、
寵臣(ちようしん)に頼って専制し、貴族らの反抗にあう。スコットランドにも敗れたが、1322年貴族軍を破って専制を復活した。
フランス王シャルル4世の妹である王妃イサベラIsabella(1292―1358)にも背かれ、
ガスコーニュ領問題折衝のために王妃の渡仏を許したが、26年、フランスに亡命中の与党を集めた王妃と皇太子らの攻撃にあう。
王はイングランド西部に逃れたが逮捕され、貴族、庶民諸階層の支持を失い王位を追われた。〈富沢霊岸〉
■シモン・ド・モンフォール
Simon de Montfort, Earl of Leicester
(1208ころ―65)イギリスの貴族。ヘンリー3世の治世に王制改革運動の指導者として活躍した。フランスの名門の出であるが、
祖母の縁でイギリス貴族(レスター伯)の地位を得た。王の妹と結婚して有力となり、フランス(ガスコーニュ)の地方長官に任じられたが、
辞任後は王の浪費に不満を抱く諸侯の先頭にたち、1258年「オックスフォード条項」
を王に認めさせて15人の貴族による最高行政会議を設置した。しかし、王の違約から戦乱(諸侯(バロン)戦争)となり、
王を捕らえたシモンは国の統治権を一時握ったものの、65年8月皇太子エドワード(後の1世)の反撃を受けて敗死した。同年初め、彼が、
貴族らに加え新たに州代表の騎士、都市代表の市民をも招集して開いた議会は、しばしば議会制の起源をなしたものといわれるが、
この制度が確立したのは、代表制が慣行となり二院制が成立する14世紀前半のことである。〈松垣 裕〉
■ジョン(王)
John
(1167―1216)プランタジネット朝第三代のイギリス王(在位1199~1216)。ヘンリー2世の末子。
あだ名は欠地王Lacklandで、出生時フランス国内の領土が3人の兄にすべて与えられていたことに由来。
兄リチャード1世の十字軍出征中王位をうかがったが失敗。その死後に即位。
フランス王フィリップ2世の破門事件に乗じて大陸領領有を認められたが、ポアトゥー貴族らと係争してフランス王廷に召喚されたが出廷せず、
フィリップ2世がかばっていた自分の甥(おい)を殺害してフィリップの怒りを買い、1204年大陸領の大部分を失った。
さらに教皇インノケンティウス3世の推すスティーブン・ラングトンのカンタベリー大司教就任を抑えて09年に破門された。
13年に教皇と和解。15年に内外の失政を批判する貴族から「マグナ・カルタ」(大憲章)の署名を強いられた。しかしその実施をめぐり、
教皇の支持を受けてふたたび貴族と対立、その内戦中に病没した。→マグナ・カルタ〈富沢霊岸〉
■デーン人
Danes
8世紀ごろからイングランド東部、北フランス海岸に来襲したノルマン人の一派。
5世紀ごろからユトランド半島に住し9世紀ごろからデンマーク王国を形成。イングランドに789年ごろから侵入。
835年にテムズ河口を襲い、さらに865年イースト・アングリアに侵入してヨークを襲い、東部イングランドに定住。
デーン人の法が行われるデーンロー地方が生まれた。ヨークにハーフダン王、イースト・アングリアにグスルム王が出たが、
当時のウェセックス王アルフレッドは、サクソン人の期待を担って善戦し、886年グスルム王と協定してデーン人の境域を定め、
サクソン人の生命財産を防衛した。10世紀末のエセルレッド2世時代さらに大規模に侵入し、
991年からはイングランドにデーン人の侵入に備えて地租「デーンゲルド」が徴収される風習をおこす。1016年デンマーク王子クヌードが、
エドマンド王を破り、エドマンドの死後イングランド王となって、デーン朝を開いた。異民族征服者として厳格な統治をしたが、
彼の死後数年で王朝は断絶した。〈富沢霊岸〉
■ドゥームズデー・ブック
Domesday Book
1086年に、ウィリアム1世の命により、イングランド全体の封建所領を調査した土地台帳。全国を7分して調査し、
ウィンチェスターに調査原簿を集めて同年末に編纂(へんさん)された。二巻よりなり、一巻はエセックス、ノーフォーク、
サセックスを除く他の州についてまとめられており、二巻は上記三州に関するものである。王をはじめ、聖俗界貴族の所領について、保有者名、
面積、犂隊(れいたい)数、農民数、そのほか森林、牧草地などを示す。調査目的については、
徴税のためあるいは国勢把握のためなど諸説あるが、1066年と86年の時点について調査してあるため、
その間の変化を示す点でも貴重な史料である。〈富沢霊岸〉
■マグナ・カルタ
Magna Carta
1215年、イギリスのジョン王が彼の失政を批判する貴族らに強いられて承認した勅許状。大憲章と訳す。
1204年フランス王フィリップ2世により大陸領の大半を奪われたジョンは、イギリスの内政に専念したが、
彼の頻繁な課税と軍役の要求は貴族らの不評を買った。またカンタベリー大司教位を空位にしてその間の収入を横領したため、
09年教皇インノケンティウス3世より破門され、14年には貴族の支持を失って、大陸領回復にも失敗した。
このような内外の失政に対して貴族が反抗し、15年6月ジョンは彼らが起草したマグナ・カルタへの署名を強いられた。
前文と63か条に分けられるが、封建的慣行に反する不当な上納金、軍役代納金の徴収への反対(12条)、貴族らの封建的特権の尊重
(34条)、不当な罰金や自由民に対する非合法的な逮捕の禁止(20条・39条)、そのほか適正な裁判、行政の実施、都市特権の尊重、
商人の保護などを要求している。国王も法の下にあるという原則を確立した重要な文書で、
王と貴族との間の封建的主従関係の原則を規定したものである。その後、この実施をめぐって紛糾し、1215年8月から内乱となり、
翌年ジョンが死亡して、問題は次のヘンリー3世時代に持ち越される。その間の緊迫した内外の諸情勢から、マグナ・カルタは16、
17年と修正のうえ確認され、25年には国王の立法権を回復する修正を加えて再確認のうえようやく公布された。しかし、
親政したヘンリー3世はそれを無視し、独裁化して貴族の反乱をよび、ついでエドワード1世もまた晩年に再確認を要求されるなど、13、
14世紀のイギリス国制史はマグナ・カルタをめぐって展開された。その後は忘れられたが、
17世紀にイギリス国民の自由の伝統を象徴するものとして思い起こされ、
19世紀には自由主義的発展のなかで近代民主主義の原点として過当に評価されたが、イギリス憲政の発展のうえで果たした役割は大きい。
現在もイギリス憲政の最重要文書の一つとされている。〈富沢霊岸〉
■模範議会
Model Parliament
1295年、イギリス王エドワード1世(在位1272~1307)が招集した議会。イギリスの議会は、
王が聖俗の大貴族に国政や司法の重要問題を諮問する封建的集会の大会議に、13世紀以降州や都市の代表が参加するようになり、
しだいに形を整えていくが、この年の議会には、〔1〕大司教、司教、修道院長、〔2〕大貴族(伯などの諸侯)、〔3〕
各州2名の騎士と各都市2名の市民、〔4〕副司教、付属修道院長以下の教区代表を含む下級聖職者が、参加し、その構成が当時の社会構成を
「模範」的に代表していたためこの名がある。もっとも、
こうした地域代表参加の議会が恒常化するのは14世紀前半エドワード2世の治世であり、また下級聖職者はのち議会には参集しなくなった。
なお、「貴族院(上院)」「庶民院(下院)」の二院構成は14世紀の間にしだいに明確となる。
〈松垣 裕〉
■ヘンリー(1世)
Henry I
(1068―1135)イギリス王(在位1100~35)。ノルマン朝を開いたウィリアム1世の四男。次兄ウィリアム2世の死後に即位。
その戴冠(たいかん)式に善政を誓う自由憲章を発布した。十字軍より帰った長兄ロバート公と争い、
1106年タンシブレーで兄を破ってノルマンディー公領を併合した。フランスの攻勢に備えて娘マティルダ(マティルド)
を神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁がせた。
財務府を中心に中央政府を整え、四部法典を編纂(へんさん)させ、巡回裁判官を派遣して裁判行政を強化した。
20年王子ウィリアムを海難事故で失い、25年にはハインリヒ5世が死んでマティルダが帰国。28年にマティルダをアンジュー伯ジェフリー
(ジョフロア)と再婚させたが、晩年は不幸であった。
〈富沢霊岸〉
■ヘンリー(2世)
Henry Ⅱ
(1133―89)イギリス王(在位1154~89)。プランタジネット朝の始祖。フランスのアンジュー伯ジェフリー(ジョフロア)
とヘンリー1世の娘マティルダ(マティルド)との子。1150年母からノルマンディー公領を、翌年父の死後アンジュー伯領を継ぎ、
52年フランス王妃エリナー(アリエノール)と結婚してアキテーヌ公領を加え、
さらにウィンチェスター条約によってスティーブン王の死後イギリス王となり、イギリスとフランス西半分をあわせる広大な領土、いわゆる
「アンジュー帝国」を支配した。各地の行政裁判制度を整え、イギリスでは64年にクラレンドン法を出して教会裁判権を規制し、
それに反対するカンタベリー大司教トマス・ベケットを殺害させた。また陪審員制を採用して大巡察制を発展させ、裁判行政の統一を図った。
73年イギリスと大陸で呼応する王子、貴族らの反乱に苦しんだが、晩年、アキテーヌをゆだねていた王子リチャード(後のリチャード1世)
がフランス王フィリップ2世と連合して反乱を起こし、リチャードの王位後継を認めさせられて死没した。
〈富沢霊岸〉
■ヘンリー(3世)
Henry ■
(1207―72)プランタジネット朝のイギリス王(在位1216~72)。父王ジョンの死により9歳で即位したので、
摂政評議会が設置され、有力諸侯が統治の実権を握った。王の親政は1234年に始まるが、
母方と王妃の縁でフランス人の側近を寵愛(ちょうあい)したので貴族との衝突が絶えなかった。58年、
王は末子エドマンドのためにシチリア王位を確保する目的で教皇インノケンティウス4世と協約を結んだ。しかし、これには貴族の支持がなく、
同年、教皇アレクサンデル4世に約束の履行を迫られて窮地に立った王は、諸侯の援助と引き替えに大幅な国政改革案を含む
「オックスフォード条項」を締結した。この結果王権は大幅な制限を受けたが、この条項の実施をめぐり諸侯の間に分裂が生じたとき、
反国王派の急進的指導者シモン・ド・モンフォールは反乱を起こし、64年「諸侯(バロン)戦争」Barons' War(~65)
が勃発(ぼっぱつ)した。王はシモンに捕らえられたが、王子エドワード(後の1世)がシモンを破った(1265)ため復権した。
王の治世の後半は行政上の改革が相次ぎ、また議会に代議制が導入されるなど、国制史の面で重要な時期にあたる。〈松垣 裕〉
■リチャード(1世)
Richard I
(1157―99)プランタジネット朝2代のイギリス王(在位1189~99)。異名獅子(しし)心王。ヘンリー2世の三男。
1169年アキテーヌ公領を受ける。73年兄ヘンリーと弟ジェフリーの父王に対する反乱に加担。
83年リチャードの敏腕を懸念した兄ヘンリーの攻撃を受けたが、兄の死で彼に王位継承権が移った。しかし父ヘンリー2世は彼を遠ざけたので、
彼はフランス王フィリップ2世と連合して、89年父王を逮捕し、王位の継承を認めさせた。同年父王が没し、リチャード1世として即位、
同年末第3回十字軍に参加した。途中シチリアでフィリップ2世と不和となったが、
パレスチナにおいて十字軍兵士を指揮して敵王サラディンと戦いエルサレムに迫った。
しかし十字軍兵士の分裂とイギリスにおける弟ジョンの暗躍のためサラディンと講和し、92年帰途についた。
同年末ウィーンでオーストリア公レオポルトに捕らえられ、93年神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡された。
イギリスでは総額10万ポンドの身代金(みのしろきん)が徴収されて王は釈放され、94年ようやく帰国。その後も大陸領経営に専念し、
ガイヤール城を築いてフィリップ2世と対峙(たいじ)したが、99年リモージュ辺で戦傷死した。治世の大部分を外国で過ごし、
イギリス国民には戦費調達のため重税を課したが、イギリスには、それに耐えうる立派な行政、財政組織が発展した。〈富沢霊岸〉
文学部専門教育科目 西洋史特殊Ⅲ
序論
1066年、イングランドではアングロ=サクソン人の王国である、ウエセックス王家が断絶すると、
フランスのノルマンディー公ウイリアムⅠ世がイングランドに侵入し、ヘイステイングスの戦いに勝利することによってノルマン朝を開いた。
この歴史的事件をノルマン・コンケストと呼ぶ。ウイリアムⅠ世は征服によって得た所領を基盤とし、ドウムズデイ・
ブックに象徴される強力な王権と行政組織を駆使して、イングランドに封建国家の基礎を築いた。ヘンリーⅠ世の死後、
後継者をめぐって内乱が起こったが、1154年フランスのアンジュー伯アンリがヘンリーⅡ世として、
プランタジネット朝を開きイングランドの支配者となった。その後ジョン王が大陸での所領を失った結果、
イングランド貴族は国内の所領経営に集中することになり、イングランドは独自の歴史を歩むことになった。
12~13世紀の農業技術や商業の発達はイングランドに貨幣を流通させることになり、
騎士の基本的義務である軍役も貨幣によって代納する制度が出来た。イングランド貴族は、大陸への従軍を逃れるため、
軍役免除金を支払って所領経営に取り組んだ。これがジェントリーと呼ばれる階層が発生する一つの要因となった。
このレポートはナイトからジェントリーへの変容を、軍事的な役割の変化と、経済の発達という視点から捉える。結論として、
イギリス近代史における中心的な階級であるジェントリーがこの時代に誕生したことを論述する。
1)ノルマン朝
ノルマン・コンケストは「ノルマンディー候がイングランド国王となったという意味以上に、
イングランドが初めてヨーロッパ文化の中心的な流れの中に組み入れられた大きな文化史的な意味を踏まえて考えるのが主流となっている。」(
『西洋史特殊Ⅲp.168』)。このような視点から大陸とイングランドの関係を考察する。
ウイリアムⅠ世は固有の領土であるノルマンディー公国において集権的封建制の確立に成功していた。
ウイリアムⅠ世はこの体制を征服地であるイングランドにも適用した。まずイングランド国内に広大な所領を確保するとともに、
従来の領主であったサクソン貴族を追放し、ノルマン貴族にその所領を継承させた。この際ノルマン貴族達が共謀して、
国王に反乱することを恐れ、その所領を各地に散在させた。諸侯や騎士階級の所領が国内に分散し小規模であるという、
被征服地イングランドの特異な状況がこのとき作られた。「ヨーロッパ大陸の封建制度においては、
このような大諸侯の所領は一地域に大体集中し、たとえば、フランスにおいて、ノルマンディー公はノルマンディーを、
アンジュー伯はアンジューを領有するように、それぞれの称号に含まれる地区全域を領有するのが普通であった」(『西洋史特殊Ⅲ』p.28)。
大陸に比べ安定した統治が見込めるイングランドは、軍事・財政面で、ノルマン朝の大陸経営を支える役割を担っていた。このため、
ウイリアムⅠ世はノルマン貴族に対して、封建的土地所有に伴う義務として騎士軍役を負担させた。国王にとっては、
必要とする完全武装の騎士が供給される事が重要であり、その方法については直接関知しなかった。
そのため広大な封土を得たバロンと呼ばれる諸侯は、直轄地を除いた封土を再下封(国王からバロンに与えられた封土を、
自らの家士に再度与えること)して騎士を扶持するか、家中騎士として、自己の所領内で扶持する方法をとっていた。
「初期にはバロンが屈強の勇者を身辺に養ってすべての生活の面倒を見た上に、武器・軍馬をも提供する直接扶養の方法が相当あったらしい。
しかしやがてこれらの勇者に封土を与えて自ら生活せしめ、かつ武具、軍馬の類をも各自に調えしめる方法が一般化した」(『西洋史特殊Ⅲ』
p.29)。諸侯や騎士階級の所領が国内に分散し小規模である、というイングランドの状況により、
再下封された封地はさらに零細な規模となり、生活を維持するための土地基盤とはならず、その維持すら困難な状況になっていった。
ウイリアムⅠ世は直接封建関係を持たない人民を支配する方法として、サクソン人の統治手段であった、州・群制を利用し、
民兵や税金の徴収をおこなうとともに、サクソン人の伝統的な軍制である、フュルド制を受け継いだ。この制度は一ハイド*1の土地から、
一人の民兵を、五ハイドから一人の騎士を徴発して六十日間の軍務に当たらせるというものであった。しかし、
サクソン人のフュルド制が国民的軍役であったのに対して、ウイリアムⅠ世の定めた騎士軍役賦課は、所領単位に賦課された軍役であった。
このような騎士軍役制度は、1100年代ヘンリーⅠ世の治世において軍役免除税が出現することによって変質していった。
2)プランタジネット朝
ヘンリーⅠ世は、娘のマティルダを次のイングランド王に定めて死去した。
この決定に従兄妹のスティーブンが異を唱えてイングランド王に就任すると、両者の間に内戦が続いたが1153年、
マティルダの子ヘンリーを次期イングランド王にすることで和解した。
ヘンリーは父方と母方から広大な所領を相続し、さらにフランス王ルイ7世と離婚したエレアノールと結婚し、
彼女が相続していたアキテーヌ侯領をも手に入れた。ヘンリーはヘンリーⅡ世として即位すると南フランスに加え、
イングランドも支配するようになった。
ヘンリーⅡ世は即位すると、戦争で疲弊していたイングランドの行政・司法・兵制を再建し、
巡回裁判官を派遣して地方の行政を監視させ起訴陪審制を定め、土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中させた。
イングランド国内の治安が回復すると、それまで治安維持の主体であったノルマン人騎士階級の軍事的な貢献度は低下していった。
その結果ノルマン人の支配制度であり、上下の人間関係を基盤としたレーン制は後退し、封地を媒介とする関係が、国王-諸侯-
騎士間の支配原理となっていった。
ノルマン・コンクエスト以来、歴代イングランド王はノルマンディー公を兼ねていることが多かった。ヘンリーⅡ世も例外ではなく、
フランスにおけるアンジュー家の所領を守るために頻繁に出兵していた。国王の軍隊の主力は、
直属封臣が差し出した騎士によって構成されていた。しかし封建的義務によって組織された軍隊は、騎士の従軍日数が平時は四十日、
戦時は六十日と制限されていたことや、騎士割当数を満たすだけの雑多な集まりの場合も多く、実戦で役に立たないことが多かった。
また強固な城郭が築かれることによって軍事戦術が変化し、軍の主力は騎士から歩兵になった。そのため、国王は軍役代納金を徴収し、
現地において傭兵を主力とする軍隊を組織した方が、軍事上も財政上も有利になった。このように軍役義務の金納化によって、
従来の人間関係や封建道徳を基礎とする制度は衰退し、土地のみを仲介とする再下封が進行した。しかし再下封は無制限に進行したわけではなく、
1,290年の「ウエストミンスター第三制定法」に見られるように、一定の政治的制限が加えられ政策的に阻止された。(『世界歴史』
p.246参照)
ヘンリー二世は1166年にバロン表と呼ばれる、騎士領の実数調査をおこなった。これは騎士役賦課数の増加を意図したものであった。
また実際の騎士役奉仕よりも、代納金の徴収を目的としていた。
軍役代納金を納めたのは、おもに騎士層であった。「これらの人々の大部分は、
後述するように王権の確立とともに整備してくる行政機構の末端を形成する州・群の地方自治体の運営に、また。
自己の所領経営にむしろ活動の場を見出してゆくのである。」(『西洋史特殊Ⅲ』p.49)。細分化された所領内において、
指導的役割を果たしたのは在地の有力者である騎士階級であった。現実の軍務遂行を軍役代納金の支払いによって免除する体制が整うと、
下層騎士階級は軍事に直接関与しない、ジェントリーへと変容していった。「やがて彼らは、上層の自由土地保有者と合体して、
在地の当然の指導者層を形成してゆく。この広い中間層がジェントリーであって、これこそイギリスの支配体制の支柱をなす、」(
『西洋史特殊Ⅲ』p.78)。
3)都市の発達とジェントリー階級
「イングランドはスティーブン王の治世を除いて政治的には安定していた。
自由な商工業活動と自治参政権の要求とを掲げたギルドがすでに征服以前よりロンドン、ヨークなどの都市に成立していたが、十二・
三世紀に各都市は、財政、行政、裁判の各般にわたる自治権を獲得して発展してゆくこととなった。」(『イギリス中世史概説』p.168)。
自治の発達は、イングランド国制の基本的性格の一つであり、アングロ・サクソン時代以来の地域的組織は国民を直接捉えうる組織であった。
そのためノルマン・コンケスト後も温存され封建的支配の道具として王権によって利用された。その後の王権の拡大は地域自治の発達を促進した。
当時の中央官吏は、数も少なく専門的知識にも乏しかった。このため王権の伸張をはかるには地域的共同体を利用することが便利であり、
また唯一の方法でもあった。地域社会において指導者として中心的な役割を果たしたのは騎士であり、
それはやがてジェントリーへと引き継がれていった。
ハイドhide イギリス中世におこなわれた地積単位。本来は一家族の保有地を意味し、同時に徴税・
軍役など公的負担賦課の基礎単位であったが、多くの地方ではしだいに120エーカーの耕地を示す単位となった。『世界史小辞典』
参考文献
森岡敬一郎 改訂 『西洋史特殊Ⅲ』慶應義塾大学出版会
『岩波講座 世界歴史』10巻中世4 岩波書店
イギリス中世史研究会編 『中世イングランドの社会と国家』山川出版社
富沢霊岸 『イギリス中世史概説』 ミネルヴァ書房
大野真弓 『イギリス史』(新版)山川出版社
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